Mさんと話し、いろいろ思い出す。

Mさんが代表を務める介護の会に行く。母が2018年に認知症の様子が強くなり、その頃お世話になった。私は仕事があったので、なかなか直接お会いすることはできなかったが、苦しい時迷った時、電話で1時間も2時間も話を聞いてくれた。母が亡くなるその日も電話で話した。


2020年コロナ禍で病院や施設の面会ができなくなった年に母は亡くなった。母は療養型病院にいて寝たきりになり、胃瘻を考えるほどに食事もとらなくなっていた。そんななか、2020年2月26日から面会禁止になった。残された時間は少ないかもしれないのに、今、できる限り側にいたいのにと、こうして記憶をたどりながら文字にしていると、あの時の怒りや悲しみや焦りがまざまざとよみがえる。前日の2月25日に面会をして、また3日後にくるつもりで「また来る」と言って帰った。帰り際に病院の受付のコロナ対策の消毒やマスクや手洗いなどの注意の張り紙を横目に見つつ。


当時は病院も、ただただ面会禁止にするしかなく、それでもなんとか母と接触したくて様子が知りたくて、わがままなお願いをした。母のスマホを渡すからテレビ電話で繋いでくれないかとか、その病院の建物は各階外ベランダがぐるりと付いており、母は窓際のベットだったので外ベランダから窓越しに合わせてくれないか、とお願いしたものだ。携帯電話の預かりは盗難紛失の問題から受けられない、外ベランダは安全管理の問題から受けられない、と病院から断られた。ただ、私の方から病院の電話にかけてくれたら、数分だけど病棟の電話の子機をスタッフが母の耳元に持っていって繋ぐ。出来ないときもあるけど、出来る限り対応する。と言ってくれた。


それから週1で電話をかけた。病棟スタッフも忙しいだろうにと思いながらも病院に電話をかけた。母は舌も口もあまり動かせなくなっていたので「聞こえる?」と聞くと、開きにくい口から「聞こえるよ…」と微かに聞き取れる。反応のないときもある。嬉しくもあり、悲しくもありだ。
コロナ禍の面会禁止から2020年5月30日に母が亡くなるまでは3ヶ月だった。たった3ヶ月だったんだと、いま気付く。もっともっと長い時間だったように感じていた。


母が亡くなるその日の夕方、病院から携帯に電話があり面会の許可がおりる。なんと言われたか今では覚えていないけれど、危篤とか緊急性のある言葉ではなく、遅くなってもいいからという言い方。コロナ禍でなかったらそろそろ旅立ちのようだから側にいてあげてください、だったのかもしれないけど、病棟に長居させられないからか曖昧な言い方だったように思う。
これはどういうことだろう、と、その時もMさんに電話した。病院から言われたことを伝えると、Mさんは推測して整理して說明してくれた。すぐ行ったほうがいい、と。
今日はMさんと直接話す機会があった。ご自分も家族や親族の介護をされ、介護の会の代表は20年続けられ、心理の勉強もされたそう。今回もまた、Mさんに良い言葉を頂いて考えさせられ、そういえば昔もそうだったな、、と思い出したので記録する。